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絵で見る生活衛生業、今・昔

上田道三(うえだみちぞう)日本画家・郷土史家(明治41年~昭和59年)、昭和21年第1回日展入選、昭和33年彦根城俯瞰図等彦根城関係作品制作に入る、昭和36年明治の滋賀風俗画の制作に入る、昭和47年100点におよぶ風俗画を完成彦根市文化財委員・彦根市美術展委員等を歴任、昭和47年彦根市功労者表彰を受賞、昭和54年滋賀県文化功労賞を受賞

昔の滋賀、とりわけ彦根にこだわり続けた彦根出身の日本画家、上田氏は、古く江戸時代から明治・大正にかけての、さまざまな風物を描き、記録画として残すため晩年をついやした。氏は自身の記録や古書・古絵図、昔の写真などをたどり、当時の城下町の屋敷や商家、民家の建前などを詳しく描いている。

彦根市教育委員会所蔵禁無断転載

明治の理髪店

絵の右上に明治三十二年の長浜神戸町とある。これは明治時代の風俗や商家のたたずまいを後世に残すために、記録画を画きつづけた故上田道三画伯の作品展(彦根市・平成十年秋)から撮影した一枚「理髪所」である。店の中には理容椅子とおぼしいものが三墓あり、左方には洗髪の様子が画かれている。其中の椅子はどうやら当世の新発明機(フケトリ機器)の使用中とみえる。(それとも婦人がパーマでもかけているのか?)でき上りを鏡の前でたしかめている紳士?)もいる。店の奥の方は待合所となっており、三々五々の語らいのさまが伺える。店のスペースは広いが、床は土問かコンクリートか、いずれにしても現在のように床が張ってはいないようだ。江戸時代の「床屋」から「理髪所」「理容店」「ヘアーサロン」ヘと、その名称にも変化のみられるなか、今を去る百十年前の理髪店-その当時の一端を眺めながら、現在に至る業界の変遷とこれからを考えてみるのも意味あることと思われる。

彦根市教育委員会所蔵禁無断転載

明治の活動写真館

明治の活動写真館 聚楽座(彦棋市川原町長光寺隣明治末期から大正ヘ) 明治五年星河園と称して川原町・長光寺東隣に芝居小屋(定囲)として誕生し、十三年・聚楽座として改称した。大正二年一月改築を行った。同十二年に帝国館と改名し活動写真館となった。明治五・六年頃の県下の芝居小屋(定囲=じょうがこい)は大津・彦根・八幡ぐらいだった。二十九年頃に映写機とフィルムが輪入され、客地で巡回映写された。三十一年我国でも製作され活動写真と呼ばれて上映された。(以上絵面の説明書きから)

滋賀の映画館のルーツ

現在の映画館は、一ケ所に複数の映画館が並存する「シネマコンプレックス方式」が主流となってきております。そのシネコンと比べますとまさに隔世の感がありますが、当時としては映画(活動写真)そのものがきっと今以上の目新しさがあったのではないでしょうか。この衆楽座は、大津市の大黒座(明治二十二年に大津市の旧小川町に建設された芝居小屋が、同二十八年に旧石橋町に移転して、後に映画を上映)とともに、滋賀県の映画館のルーツといえましょう。

彦根市教育委員会所蔵禁無断転載

明治の風呂屋

古来寺院の大切な事業の一つであった施湯にはじまると伝えられる会衆浴場は、明治から今日の近代的な銭湯になったといわれているが、その「明治の風呂屋」を克明に画いたものがこの一枚である。なるほど玄関(入り口)の屋根は寺院のそれを思わせる造りだ。ここには「山の湯」と書かれたのれんがかかっており、向って右側に「男湯」を、左側に「女湯」の案内をかかげて男女の入り口も分けるしくみになっている。入ったところには「呑台」があり、男女それぞれに脱衣場・脱衣箱・鏡等の設備があるほか、男性の脱衣場に火鉢がおかれているのは、水分補給や喫煙に置かれたものであろうか。浴槽は「普通の湯」と「薬湯」に分かれているが、薬湯の浴槽がかなり大きいのに驚く。湯治や暖まりの目的で入る客も多かったのであろう。現代のように上がり場のカランらしいものは見られず、多分手桶で湯槽の湯をすくい、体に流しかけたものであろうか。「湯舟の中で…」という主人名の「定」が貼ってあるのが見えるが、文字がはっきり読みとれないのが残念。いづれ湯舟の中の不作法を戒めたものであろう。目を転じると、右手には彦根城の堀かと思われる風景が広がっている。外を眺め、くつろいでいる人も何人かはいるようだ。
時代が移り、少しずつ形や内容も変わってきても、身も心もすっきりとしてリラックスさせ、誰にでも平等な幸せ気分を与えてくれる風呂の効用に変りはない。この明治の風呂屋は現代の公衆浴場のかたちの原点であるように思われるが、それにしても何と平和で、文字どおり暖かな風景であろうか。

彦根市教育委員会所蔵禁無断転載

明治初期の中仙道醒ヶ井宿/明治のホテル

旅篭・旅館・ホテル・・・・・と趣はちがっても人を泊めることには変わりはない。
旅篭は、我が国では室町時代からあったと聞くが、ホテルが東京に出現したのは明治元年という。
この二枚の絵は、いづれも明治時代のものを現わしているが、醒ヶ井宿はいかにも民家(民宿)といった感じであり、旅篭と呼ぶにふさわしいたたずまいである。
一方、大津小川町のホテルは和風の造りではあるが、建物も大きく瓦葺き二階建てであり、当時としてはモダンな存在であったのだろう。
洋装でホテルへ向かう婦人もあれば、人力車で運ばれる客もある。
「西洋料理」もホテルで供され、「すきやき」と並んで人気を呼んだものであろうか。
明治は期間も長かったが、この二枚の絵を見るとき、現在の民宿とホテルの前身ををみているようで興味深い。

彦根市教育委員会所蔵禁無断転載

明治6年 彦根市土橋町辻の図(食肉販売)

現在の食肉販売(=消費)の状況には目ざましいものがある。いまどき大抵の人の食卓には、食肉が何らかの形で上がっていない日はないと言っても過言ではないだろう。
しかしこの絵によれば「明治天皇が牛肉を初めて食されたのが(明治)五年十二月二十四日であった」とあり、「明治六年頃彦根の町内を牛肉を売り歩いたと記録されている」ほか「その頃に彦根市土橋町辻の所には、三階建のかしわ屋、その隣に村田牛肉店が開業したと市史にあり」とあるので、この時代に畜肉販売とその料理店ができたものとみて差支えないであろう。
もっともこのように販売店や料理店ができたといっても、庶民の口に今のようにやすやすと牛肉が口に入ったものとは思えない。
明治六年頃牛肉を売り歩いたといっても「牛肉とは云はず(原文のまま)」とある。
この絵の中央下には「養生はイランカネェチンタはどうかーねと」と呼びかけているところが描かれている。つまり、「牛肉」とは言わず「養生」と名付けているわけだ。「チンタはー」とあるのは、「少しは」という意味の方言か(はっきり分らない)また村田牛肉店の看板には「養生薬牛肉」と書かれており当時は多分消耗性の病気や虚弱な人の滋養薬として、まだまだ貴重品扱いをされていたのではなかろうか。
「十年頃には牛乳を売り歩いた」とあって、これを計り売りしている図があるが、これも多分に薬的な扱いであっただろう。そう考えると誰もがたやすく消費できるものではなかったと思われる。
それにしても牛肉の切り売りのほかすき焼や西洋料理等の料理屋(飲食店)も兼ねていたことが分り、現在の食肉販売業を営む人が、同時に焼肉などの飲食店を経営されてるのと似ている。
また当時牛鍋(すき焼)一人前の値段(三~五銭)、スープ、ビフテキ、シチュー等の西洋料理の価格(三~四銭)も表示されていて興味深い。肝心の牛肉の値段は書かれていないが、「値段の(明治・大正・昭和)風俗史」(朝日文庫-一九八七年刊)によると、明治十三年一〇〇グラム当たり平均三銭とあり、また当時繁盛した牛鍋は一人前十五銭(東京)とあるから、明治六年あたりは、これより安価であったとも考えられるし、また、東京あたりの価格が、本県よりも高かったのかも知れない。
さて、牛肉屋の右隣の「かしわ屋」も絵から見て多分入口に近いところで切り売りを行っているようであり、一方、かしわ鶏鍋料理やスープなどを供している。ここは三階建てになっており多分当時としては珍しいものであつたろう。このかしわ屋の二階と三階、また牛肉やの二階では、鍋料理が煮えているさまが、立ちのぼる湯気として描写されている。
「東京の牛肉屋ののれん図」というのが左上に描かれており、既にミルク(牛乳)・チーズ(乾酪)・バター(乳油)・バタラル(乳粉=パウダーミルク?)等の乳製品も販売されていたようだ。「馬肉を桜、猪を山クジラ共(とも)ぼたんともいう、鹿肉を紅葉(もみじ)ーと書いてあるように、これらの肉も食されていたことが分る。
それでもこの絵には「豚」が出てこない。豚肉が一般に食されるようになるのはもう少し後のことなのだろうか。
牛肉が一般に広まって一二〇年ばかり…牛や鶏(や豚肉等)を今日ほど食べるようになろうとは誰が予想したであろう。輸入肉の多いこの頃と違い、たしか国内産のみの頃は、鶏肉の方が牛肉よりも高価であったと記憶する。 いろいろと教えられることの多い一枚である。

彦根市教育委員会所蔵禁無断転載

明治末期の髪型

「女髪結い」、この言葉は江戸時代中期の寛延年間に登場する、史料が数少ないため当時の様子はさだかでないが、一般庶民を顧客としたのは安永年問である。これが美容業・美容師のルーツである。何故、この頃から歴史の表舞台に顔を出すようになったのか、度重なる幕府の弾圧に屈することなく受け継がれてきたのか。日本人の美意識の原点は「垂髪」であるのに、江戸時代末までに兵庫髪、島田髭・勝山髭など三〇〇種類以上の「結髪」であるところの日本髪が出現したのは何故なのだろうか。人は、本来、生理的欲求が満たされると、社会的欲求を生み出し、そこに「特記」と「同調」という相反する二つの欲求が存在することになる。この二つの欲求の繰り返しこそが、美容業の原動力なのである。具体的にいえば、「垂髪」に飽きた女性がある種の日本髪を結う。それを多くの女性達が真似る、またその日本髪に飽きた一部分の女性達が別の日本髪を結う、またそれを多くが真似る……
という繰り返しに、技巧を凝らした新しい髪型を提供した「女髪結い」が深く関与してきたのである。また「女髪結い」が繁栄した理由、それは「貨幣経済の浸透」という江戸後期以降の時代背景に起因する。つまり、「女髪結い業」は、比較的収入のよい内職程度であれ、現金収入を得られる「業」なのである。その事業形態は、店舗を持たない「出髪」と呼ばれる出張サービスであった。その形態は、店舗を構えることができた明治時代にはいっても受け継がれて行く。擁するに「美容業」を営むということは、何の大義名分も必要としない、単に「客」があるから「利益」があるから、ということである。
髪結い、女子髪結業者、洋髪屋、パーマネント屋、美容師と呼称は変化し、日本髪、電髪、コールド・パーマネント・ウェーブ等と技術内容が変化しても、今も昔も「美容業」の本質は変わらないのである。
(以上 執筆者滋賀県理容美容学園美容科教員川田洋士氏)

写真の絵の中央右側に「自己表現は髪かたちではっきり現した時代であった」とあり、川田氏の文と照らしあわせて明治の風潮が感じられる。また事業形態が主として「出髪」であったことから、髪型は画いてあっても店舗は画かれなかったのかもしれない・・・・・。
絵に目を向けてみよう。年令により髪型に区分のあったことが分かる。つまり幼児のそれから、祭礼時などの「稚児まげ」、小学生の「銀杏返し」等、娘時代の「桃割」、既婚婦人の「丸髪」、「後家髪」など。またこの中には「明治後期から大正にかけ、赤い鳥・青い燈から一般家庭に向かって流行して行った」という「耳かくし」「オールバック」まで画かれており、洋風化していくさまの一端も伺えて面白い。

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